「仙石お家騒動」ゆかりの家老屋敷

辰 鼓 楼

兵庫県の城下町 但馬の小京都 出石

■出石の歴史

 出石は、 「古事記」などによれば、新羅の国から渡来した天日槍命(あめのひぼこのみこと)が、泥海の底にあったこの地を開拓して出来たと言われています。 出石神社に近い袴狭遺跡(はかぎいせき)からは、古墳時代の船団を描いた線刻画が出土しています。 又、出石神社なは、禁足地とされる聖域があり、ここが天日槍命の陵(墓)か、祭祀の場所ではないかと言われています。

 出石は、
5万八千石の但馬随一の城下町です。 室町時代には、但馬の守護として名を馳せた山名一族が居城を築き栄華を極めました。やがて天下を二分する応仁の乱へと打って出ましたが、此隅山と有子山に築かれた山城は、2度にわたる秀吉軍の但馬征伐で落城し、200年続いた山名氏の支配は終りを告げました。

 江戸時代になって、出石城主は小出氏、松平氏、仙石氏と移り変わりましたが、5万八千石の城下町の基礎を固めたのは、2代城主 小出吉英でした。 慶長9年(1604)有子山の麓に城を移し、主要な街道口や辻などには、戦いの時砦の役目を果たす寺院を置きました。 京街道には経応寺、豊岡街道には見性寺、八鹿街道には称名寺、奥山街道には法城寺、日野辺街道には福成寺と中には白塀に矢狭間を設け城のような構えを見せる寺院もあります。

■辰鼓楼

 大手門にそびえる辰鼓楼から、辰の刻(午前8時)を告げる太鼓が響くと、それを合図に侍たちが太鼓橋を渡って城へ登城していきました。 辰鼓楼も、明治になってオランダ製の時計が取り付けられました。

■おりゅう灯籠

 町の中央を流れる谷山川(旧出石川)は、かっては3倍も川幅があり、年貢米をはじめ出石焼などの産物を運ぶ十石船が川を上下していました。 河川改修で今は面影もありませんが、船着場跡に残る「おりゅう灯籠」が、この川が交通の要所であったことを物語っています。 通称「おりゅう灯籠」の名の由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公「おりゅう」の名にちなんだもので、灯籠と横の柳の木で「おりゅう」と恋人が寄り添う様子が表現されています。 夜間は、灯籠に点灯されています。

■桂小五郎の潜居跡

 蛤御門の変に破れた後、京を追われた桂小五郎は、元治元年(1864)広江孝助と名乗り、荒物屋をしながら幾松婦人と出石に潜伏していました。写真の家屋の前に住居跡の記念碑が建てられています。

■出石焼 繊細な彫刻と透き通るような白の美学

 その起源をたどれば、天日槍命が新羅の国から従えてきた陶工に、日用雑器を焼かせたのが最初といわれています。 磁器としての歴史は、江戸時代に良質の陶石が発見されたのが始まりとなりました。 出石藩も産物会所を設けて生産を奨励しました。 明治になって、士族の子弟が技術を受け継ぎ、窯元として出石焼の伝統を守ってきました。

■出石そば 挽きたて・打ちたて・茹がきたてが自慢

 宝永3年(1706)信州上田城から奥に替えとなった仙石政明が、信州よりそば職人を伴ってきたのが始まりとされています。 従来のそばに、信州のそばの技が加わって独特の出石そばが誕生しました。 皿そばのアイデアは、屋台売りのそば屋が持ち運びに便利な様に、出石焼の手皿に盛って出したのがきっかけと言われています。 出石の町を歩けば、至る所にそば屋の暖簾が有ります。その数50軒以上、新そばの看板が出る頃には、全国からそば好きが集まります。 

 


おりゅう灯籠
幕末 桂小五郎の潜居跡

出石の城下町名物 皿そば

出石手打ち皿そば そばの里 大 門

こだわりのそば粉は、石臼で挽かれています。
出石そばの取り寄せが出来ます。

http://www.izushi-daimon.com

TEL/FAX 0796-52-5736

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