姫路城の構造
姫路城天守閣の心柱

城見台公園からの姫路城と鯱のレプリカ

世界文化遺産
国   宝
姫 路 城

 日本に現存する、お城の中でも高い評価を受けている姫路城を6回に分けてレポート致します。

 第1回 大手門〜菱の門と姫路城の歴史
 第2回 菱の門〜西の丸
 第3回 「は」の門〜天守閣入り口
 第4回 天守閣
 第5回 腹切り丸〜菱の門
 第6回 姫路城城下町と好古園

第1回 大手門〜菱の門と姫路城の歴史

 その昔、現在の姫路城が建つ姫山には「称名寺」が建っていました。貞和二年(1346)に赤松則村の二男貞則が父の意向を受けて、初めて姫山を中心に城の縄張りを行いました。
 四百メートル四方の範囲に、今の西の丸のある山に建物を建て、姫山の城と呼ばれ、これが姫路城の始まりと言われています。

 天正五年(1577)、羽柴秀吉が播磨に乗り込んできました。 秀吉はほとんど武力を使わずに、一ヶ月ほどで播磨の平定を終え播磨の帰順が見えたので、自国の長浜に引き上げました。
 ところが天正六年(1957)、秀吉が中国地方征伐の為播磨にやってくると、播磨勢の多くが毛利勢と手を組んで反旗をひるがえしました。 秀吉は書写山に本拠を構え、攻撃に出ますが根強く抵抗をされ、戦乱は二年間にも及びました。
 天正八年(1580)秀吉は姫路城に入城し、すぐに城の改築にとりかかりました。 このころの姫路城は御着城の支城にすぎず、古い城を改め、三層の天守を持つ本格的な城を一年で築き上げました。 後に天守閣は「太閤丸」と呼ばれました。
 天正十年六月二日信長が京都で無念の最後を遂げたあと、翌日三日にこの一件を知ると、攻め立てていた毛利氏と和解し、猛スピードでUターン(秀吉の中国大返し)、その時も中継点として姫路城は、重要な役目を果たしました。

 徳川の時代に、姫路城の城主として池田輝正が入城致しました。 池田輝正は、すぐに城の大改造にとりかかり、今の白壁の大城郭を築き上げました。 家紋の揚羽蝶は池田輝正の紋です。
 池田輝正は、三河吉田十五万石から姫路五十二万石の城主となり、西国の押さえとなる任務が与えられました。
 池田輝正が没して四年目の元和三年(1617)、本多忠政が城主として入城しました。 禄高は、十五万石となりました。
  大阪城とともに豊臣家が滅ぶと、豊臣方を牽制する役目を解かれ、禄高も十五万石に定着しました。
 そんな時代に、徳川家康の孫娘「千姫」が21歳で姫路城に入り、本多忠刻に嫁ぎました。 本多忠政は、二人のために居館の「武蔵野御殿」を築いただけでなく、西の丸に千姫が自由に出来る千姫の化粧櫓を建てました。

 本多忠刻は武門の伝統を継いで、剣の道に励みました。 その指南役が「宮本武蔵」と、その養子三木之助であったと言われています。

 その後、城主もいろいろ変わりましたが、姫路城は開城のときを迎えます。  鳥羽伏見の戦いが終わると、維新政府は旧幕府側に付いた姫路城へ追討の兵をさし向けてきました。 千五百人の兵で城を囲まれ、重臣たちが涙をのんで開城の決意をしました。 維新政府兵は、男山に陣取り砲撃を加えてきました。 この攻撃で福中門の瓦が損傷をうけました。

 姫路城は、明治15年(1882)天守閣近くの備前丸より出火、焼失しましたが天守閣には延焼しませんでした。 
 昭和6年(1931)城郭として初めて国宝に指定されました。
 昭和20年(1945)姫路大空襲で城内に焼夷弾が落下しましたが、火災は発生しませんでした。
 昭和31年(1956)昭和の大修理が始まりました。天守群全体を解体修理するという前代未聞の工事でした。
 平成5年(1993)姫路城は、「世界文化遺産」に登録されました。

大手門(桜門)

 昔は、内堀にかかる橋を渡り大手門(桜門)に至った。今は、橋はなく大手門へと続いています。大手門をくぐると、左手には、千姫の為に建てられた「武蔵野御殿跡」があり三の丸広場へと続きます。

三の丸広場

 三の丸広場には、芝生が緑の絨毯のように広がり、春は桜の花見、夏は薪能、秋は観月の夕べと季節を楽しめるイベント広場として使われています。 また、姫路城の天守閣と西の丸の、景観が楽しめるベスト・ポイントです。
 明治の初め、兵舎設営のために取り除かれるまで三の丸には、たくさんの建物がありました。 城主の本城が今の千姫牡丹園の場所にあり、本城の東にも数寄屋造りの屋敷があり、それは向屋敷と呼ばれていました。
 道は、三の丸広場を大きく巻くように姫山と鷺山の間へとのびています。正面登閣口より「菱の門」へと続きます。


姫路城への入り口 大手門

大手門をくぐると三の丸広場 花見のにぎわい

姫路城登楼への入り口

菱の門

 

l 兵庫県の雑学TOPへ l