書写山圓教寺の入り口ロープウェイ(写真 上)

書写山圓教寺の磨尼殿(写真 左)
ロープウェイ山頂駅

西国二十七番札所
書写山 圓教寺

  1. ロープウェイ登山・書写山圓教寺概略
  2. 西国三十三観音像
  3. 仁王門・磨尼殿
  4. 3つのお堂・奥の院と弁慶伝説

○書写山(山号)圓教寺(寺号)の歴史
  書写山は、特に高い山ではありませんが、古くから祈りの山として歴史を刻んできますた。 古くから、修行して山の霊力を身につけようとした行者が現れ、書写山は山岳信仰の道場として発展してきました。 経
典は手で書き写すしかなかった時代では、写経は修行僧にとって大事な勤めでした。 山麓の人が、いつ登っても修行僧らは一心に教典を書写していた。 その驚きと敬意がこの山を「書写山」と呼ばれるようになったと言う一説があります。

  康保三年(966)、性空上人が入山致しました。 性空上人は西の谷を選んで、二間四方の草庵を結んで普賢菩薩の絵像をかかげたのが圓教寺の始まりと言われています。
  書写山上に寺院らしさが整うのは、寛和元年(985)の法華三昧堂建立が皮切りでした。 あくる寛和二年(986)七月、天皇の座を退いた花山法皇が参詣してきました。 山上の寺は、花山法皇によって「圓教寺」の寺号を受け、勅願寺の待遇を受けました。
  永延元年(987)、三間四面の講堂が落慶し、十月七日比叡山からの高僧も参列して天台宗の盛大な法要が営なわれました。
  書写山の第一次隆盛期が続き、常行堂、多宝堂、大経所、経蔵、鐘楼などが建立されました。
  寛弘四年(1007)性空が入滅しました。 跡を継いだ高弟の延照は、仏師安鎮に命じて性空の像を刻ませ、御廟堂を建てて安置しました。 それが開山堂の前身です。

  鎌倉時代の中期になると、常行堂、講堂の改造、食堂の建立などが相次ぎ、第二次隆盛時代をむかえました。
  落雷、戦火などで焼失したり損傷をうけた堂は次第に復興されました。 江戸時代になると、書写山は祈りの山としての、本来の荘厳さを取り戻します。 また西国三十三ヵ所巡礼の盛況があげられます。 それは、書写山の第三次隆盛期でした。 近畿地方を中心に由緒ある観音菩薩の霊場を順の巡って、それぞれの霊場で巡礼札を納めて行くので西国三十三札所とも言います。

○書写山圓教寺への参詣
  書写山は姫路市の西方に位置し、標高は三百七十メートルです。書写山は比叡山・大山とならんで天台宗の三大道場と呼ばれています。 とくに森の深さと伽藍の壮大さから西の比叡山と呼ばれています。
  書写山圓教寺は、西国三十三霊場の第二十七番札所であり、ご詠歌にも、その感動が歌われています。
       はるばると 登れば書写の山おろし
       松の響きも み法なるらん

  書写山登山口は、東坂参道・西坂参道・置塩坂参道・六角坂参道・刀出坂参道・鯰尾坂参道などがあります。 東坂参道から圓教寺境内を通って、もう一つの旧参道刀出道をたどる山陽自然歩道として生かされており、ひょうご森林浴場の一つに選ばれています。 鳥の声と豊富な植物群を楽しめますが、一般的には書写の里よりロープウェイを利用して登ることが多くなっています。
  ロープウェイは、たった四分間の短い時間で山頂に登る事が出来ます。 ロープウェイの山頂駅の前には、紫雲堂跡の展望広場を経て東坂参道に向かう道標が有ります。 六本ある参道の中でも最も盛んに利用された参道です。
  ロープウェイ駅を歩き出すとすぐ公園が有ります。 大きな石の彫刻が有り、「言葉のいのちは愛である」の文字が刻まれています。 椎名麟三が書写山麓の生まれであったことから、それを顕彰して建てられました。 文字は、椎名麟三と親交のあった岡本太郎の筆によります。
  参道のとりつきに天台宗を開いた最澄の「一隅を照らす これ即ち国宝なり」の聖語を刻んだ石碑があります。 ここから表参道と脇参道の二つに分かれます。

  

書写山から見た姫路市街
ロープウェイ駅から参道を登る参詣者

表参道(右)と脇参道(左)の分岐点
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